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メッセージ

今週のメッセージ:  現地の週刊紙CORREIO DE CORUMBÁに掲載しているメッセージです。

世界平和を考える: サイト運営者からのメッセージです。

世界平和統一家庭連合からの主要メッセージ




今週のメッセージ


2006年6月21日

寝ること、起きること、行くこと、来ること、与えること、受けること、全部が神様と共に隔たりなく、平和な思いでやりましょう。

信仰生活は、他人が感得できない中で、一人で感謝する生活、一人で満足する生活をしなければなりません。そうでないときは、「私は罪人です。私に逃れ得る力を与えてください」と、悲しみながら悔い改める立場に入らなければなりません。この二つを全て失うときには、信仰生活をしていくことができません。


2006年6月14日

真の愛は公益性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福の根本です。真の愛の本質は、ために生きてもらう愛ではなく、人のために、全体のためにまず与え、ために生きる愛です。与えても与えたという事実自体を記憶せず、絶えることなく与える愛です。喜びで与える愛です。
お母さんが子女を抱いてお乳をやる喜びと愛の心情です。子女が父母の前に孝行を尽くし、喜びを感じるそのような犠牲的愛です。

2006年6月7日

他人に世話をさせる者は、病人です。むしろ与えるために涙を流す者にならなければなりません。

必ず与えなければなりません。先に受けて与えるのは、借金を返すことであって、与えることではありません。

生まれたからには負債を残さず、世界に何かを与えていかなければなりません。子女に対して父母が残してあげれば、その子女は死ぬときまで感謝するでしょう。


レバレンドムーン  


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世界平和を考える


ここでは、皆さんと一緒に、世界平和について考えてみたいと思います。 グローバリゼーション時代にあって、現在、私たちの住む世界はつねに小さくなっています。それは、世界人類に相互理解を深める機会を提供する一方、私たちの内に潜在していた宗教間や民族間の不寛容性を顕在化させるとともに、拡大の一途を辿る所得格差の問題も相まって、憎悪までも生み出しています。そうした土壌の中から生じてきた文明の衝突、またテロリズムといった問題は、今日、人類を脅かすまでに至っています。人類はいかにしてこれらの問題を解決していくことができるのでしょうか。

歴史を通じて、人間は幸福を得ようともがいてきましたし、人類はよりよい世界を希求してきました。その手段として、ある人は、お金こそが惨めさを無くしてくれるだろうと、お金を必死になって追いかけています。また、ある人は、学歴を積むことが幸せの道を開いてくれると考え、また科学技術の発展こそが諸問題の解決の鍵となることを期待しながら、学問に献身しています。また、宗教者や哲学者たちは、人生や世界の問題解決の真理を探し求めてきました。

しかし、歴史の最初から現在にいたるまで、これらいずれの試みも、人生と世界の問題に終止符を打って理想世界を築くことはできませんでした。物質的に豊かになった日本やアメリカのような国も、いまだに多くの問題を抱えていますし、科学の発展は、私たちに多くの恩恵をもたらした反面、人類を脅かす核兵器などをも生み出し、人間に利便性をもたらした自動車はその副産物として交通戦争をも生み出しています。

宗教をみても、たとえばキリスト教は世界の多くの人々が信じるようになりましたが、いかなるキリスト教国においても、理想的国家が築かれたことはありません。それどころか、宗教的熱狂は人々をしばしば宗教的不寛容、ひいては宗教戦争へと駆り立て、新たな悲劇に導くことさえ起こりうることを私たちは見ています。 こういう現実下にあって、「神はいない」と言う人もいます。

では、はたして神は本当にいるのか、それともいないのでしょうか?この問いかけは哲学的にも最大のテーマといえようものですが、哲学的に深入りするのは、また別の機会に譲ることにします。
単純に考えてみますと、もし神がいないのならば、神の愛を説いたイエス様はこの2000年間、数十、数百億にものぼる人々をだましつづけてきたことになります。イエス様から神を取ったら何が残るでしょうか?何も残りません。神のみ旨とあらば、自らの生命をも捧げていかれたイエス様にとって神はすべてであったからです。ですから万一、神がいないとすれば、イエス様はウソで固まった人であったということになります。しかし、たとえキリスト教徒ではない人であったとしても、さすがにイエス様がそんな嘘つきであったと心底思える人はそう多くはないでしょう。すなわち、私たちの奥深いところには、神を否定することができない本心があるということであり、また、神は存在するということになるのです。

歴史を通じて、人間は知識を培いながら、人生と世界の問題解決を願ってきました。先進諸国においては、人間としての尊厳をもって生まれ、人間として生きることが保障され、世界についても良く分かるようになってきました。しかし、問題は、自分自身が分からないということです。 「私はどこから来たのか。私は誰なのか。どこへ行くのか。」 多くの知識を持っている大学の先生ですら、これら自分自身の人生の疑問に対しては満足いく回答はもってはいません。

人間が先か、それとも学問が先でしょうか。あくまでも学問は人間があってのもの。 こうしてみると、私たちには、人間の本質に関する知識が欠けてしまっていることが分かります。そして、この本質的な知識をもつことないままに、人間は人生で苦労しつつ、悲しいことに、なかには自分の価値を見出せずに自殺してしまう人もいますし、他人の価値を分からずに他者を傷つけ、犠牲にしながら、結局悲惨な世界を作り出してもいるのです。 それゆえに、私たちは、私たち自身について知ることが非常に大切であるといえるのです。

ところが、私たちは自分自身の意思で生まれてきたわけではありませんので、いくら私たち自身を研究しても、人生の目的を見出すことはできません。また、両親の意思によったわけでもありません。そもそも宇宙において、いかなる存在も、自身の存在目的を決定付けることができるものはありません。宇宙の根本を突き詰めていくと、全ての存在はある無形の主体によって存在せしめられているといえます(参照:宇宙の根本を探して)。哲学的にいえば、すなわち第一原因ということであり、宗教的には神様と呼ぶことになります。

存在目的について考えるために、時計を例に挙げてみましょう。ある時計に意思があったとします。あるとき彼は、「自分は何のために三本の針をもって絶えず回り続けているのだろう?」という疑問を持つに至るでしょう。そして、彼はその答えを得るために、まず自分の体の構造を調べ尽くそうとするかも知れません。その結果、彼は自分の顔には、12の数字があり、3本の針は、それぞれ60秒、1時間、12時間で1周し、背面には、それらの針を動かすモータがあり、そのモータは電池によって動いているなどといった分析結果を得るでしょう。しかし、どんなに精密に自分の体を調べつくしたところで、彼はそれが何故そうなのか、という自身の存在の目的にはたどり着くことはできません。時計は自分の意思で世に生まれてきたわけではないのですから。結局、自身を創造した人間に対して、「なぜ私をこのように作ったのですか?」と問いかける至って、はじめて彼は「自分は人間に時を知らせるために、このような構造をもって存在しているのだ。」という、自身の存在目的に対する答えを得ることができるようになるのです。

この時計の例は、私たち人間自身の人生に対する問いかけに、大きな示唆を与えてくれます。つまり、私たち自身においても、私たちの生命の根源者である神を知らない限り、私たちの人生の問題に対する解答を得ることはできないということです。

それでは、神とは何者であるのかを考えてみましょう。
まず第一には、上述のとおり、全てのものを存在せしめている第一原因、すなわち創造者であります。つぎに、他者によって存在せしめられている存在は、その原因者を存在させることはできないわけですから、第一原因としての神は、自存者(不動の動者)でなければなりません。

また、この宇宙の全ての存在は時空間に限定されていますが、この時空間も第一原因者である神の創造の結果であるわけですから、神はご自分が創造した時空間に限定されることはありません。したがって、第三点目は、神は時空を超越する存在であるということになります。つまり、神は今も昔も未来にわたっても永遠に存在する永遠者であり、過去の全ても、現在も知り、未来の可能性も知っておられるということになります。また、第四点目として、時空超越する存在であるということは、極小の素粒子から大宇宙のどこにでも偏在でき、内的には心の世界にさえも臨在することのできる偏在者でもあるわけです。ここで、心の世界にも臨在することができるということは、神は一つの人格を持っておられる人格神であるということになります。

では、神はいったいどのような人格をもっていらっしゃるのでしょうか?このことを考える前に、まず人体の不思議について考えてみましょう。
例えば、私たちの目ですが、これがカメラの基本構造と同じ構造をもっていることは、私たちが知るところです。カメラは人間が何十年もの間にわたって研究を重ねながら設計し発展させてきたものです。同じ理屈からすれば、そのように複雑な私たちの目や人体が設計図もなく自然発生したという道理はありません。では私たちの目をはじめとした人体の設計図は誰が書いたのでしょうか。私たちの親が書いたわけでも先祖が書いたわけでもありません。結局、私たち人間を超越したところに、設計図を書いた存在、すなわち神がいなければならないということになるわけです。

ところで、目は、「見る」という目的を持っています。さて、この「見る」という目的が先でしょうか、それとも目が先でしょうか?これはもちろん、目的が先ということになります。たとえば、目は生まれる前に、世の中にはこんなにも見るものがあるということを知り得たでしょうか?目自体は純粋な物質ですから、目は知り得たはずがありません。では、「見る」という目的はどこから来たのでしょうか。それは目を設計した神から来たことになります。重ねて言いますが、 神の中に目的があったということは、その背後に人格がないといけない、すなわち、神は人格をもった存在であるということです。

見るのは何のためでしょうか。目で見て感知して喜ぶためです。しかし、もし世界の全てが単色だったとしたらどうでしょう?それはまったく面白みのない世界であったに違いありません。実際には、神のおかげで、カラフルな自然美が存在しています。さらには、動物界において、ほぼ人間の目だけが唯一カラフルな自然美を満喫できる構造をもっているのです。犬でさえ、モノクロ世界の中に生きています。美しい花も動物たちも自分で自身の美を見て楽しむことはできません。つまり、自身のカラフルな美は彼らに喜びを与えることはありません。ほぼ唯一人間のみが色とりどりの自然美を楽しむことができるのです。さらに言うならば、私たち五官のすべては、感知することで、私たちが喜ぶために機能しているのです。

神はなぜ、そのように宇宙を創ったのでしょう。ここにおいて、私たちは、「人間を喜ばしてあげたい」という神の意思に出くわします。すなわち、どんなにつらく、悲しいことがあっても、全ての者を幸せにしてあげたいという願いを持たれた、あふれる愛の主体者であられる神様を見い出すのです。 では、神様はなぜそんなにも私たちを愛してくださるのでしょうか。神様にとって私たちは何者なのでしょうか。また神様は、私たちにとって何者なのでしょうか?

イエス様は、神は人類の親であり、私たちは本来神の子である教えて下さいました。では、 親子関係とはどういったものでしょうか。親子とは、共に生き、情を分かち合う関係です。親にとって子供は第二の自分であり、自分の似姿です。そして心情的には、自分の生命以上に大切な存在でもあり、親はみな、わが子に自分よりも偉大になって発展してほしいと願うし、また自分の築き上げたものをすべて相続させたいとも願います。

では、神様は人間に対してどうなのでしょうか。聖書の創世記1章27節から28節を見ると、私たちは、まさに人類の親としての神様の心情を見出します。すなわち、神は「こ自分のかたち(神のイメージとして)に人を創造された」のであり、「成熟せよ(Be fruitful)」と言って、人が立派に成熟することを願われ、さらには、「ふえよ、地に満ちよ。」と言いながら、ご自身の子女であるアダムとエバが成熟した後に結婚して子女を繁殖することを願われたことが分かります。さらには、「地を従わせよ。海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」という風に、ご自身のの創り上げたすべての万物を人間が相続して、治めることをも願われたのです。

これらの三大祝福こそが、神様が子女であるアダムとエバに示された人生の目的であったわけです。神様は、アダムとエバが、ご自身と共に親子として心情を分かち合いながら、喜びながら生きていくことを夢見られたということです。
愛は、その理想を実現するためには、その相対、パートナーを必要とします。全知全能の神様だに、ご自分一人だけでは、その愛の理想を実現しようがありませんでした。神様は、ご自身の内にあふれる愛を与えたい、愛を通して喜びを感じたい、自分のもつすべての愛を注ぐことのできる息子娘を持ちたいと願われたのです。全ての愛を与えながら、愛するアダムとエバが立派に成長していき、愛の理想を実現していく姿を見ながら、彼らと共に、その愛の喜びをともに感じたいと願われたのです。

私たちが、生まれくるわが子の幸せを願いながら、ベビー服も準備しベビーベッドも準備し、できうる全ての準備をした上で、子供の誕生の日を待ち望む心情は、いったいどこから来るものでしょうか?その心情は、まさに神様が親として人間を見つめられる心情を受け継いだものなのです。すなわち、神は、創造に際して、愛を動機として、「ために生きる」という原理原則をお立てになったのでした。 人間には、個性完成するまでに成長の期間を通過します。この成長期間に、人間は、万物にはない自分自身の人格を創り上げていくという責任分担を果たしていかなければなりません。言い換えれば、それは「ために生きる人格」を完成していくための期間です。

愛するにおいても、自分のためでなく、相手の喜びを動機とする真の愛の人格を築き上げていくことです。イエス様が「天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言われたように、私たちが自己完成していくことが神様の願いであるのです。人間は成熟していけば、やがて結婚するようになります。結婚時には、そのパートナーの喜びのために、私たちはプレゼントを準備します。では、 結婚するときの最高のプレゼントは何でしょうか。それは、パートナーのために守りつづけてきた純潔であり、そのパートナーを唯一永遠の愛のパートナーとするという貞節ではないでしょうか。それに勝る贈り物はないのです。

そのような、愛の理想をもって、神様がご自身のすべての愛を投入して創造したアダムとエバであったにもかかわらず、不幸にも、彼らは神様の願いを認識することなく、自己中心というエゴイズムの誘惑に陥ってしまいました。聖書には、彼らが堕落した直後、神様が「あの実を取って食べたのか?」と問い詰められた記述があります。はたして、そのとき神は、ただ彼らを罰しようという動機で問い詰められたのでしょうか?そうではありませんでした。親としての神様の中には、彼らが素直に自分の非を認めて、悔い改めることで、正しい道に戻ってほしいという動機がまちがいなくあったはずです。

しかし、アダムは、「(あなたが)わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。」と答え、エバも、「(あなたがおつくりになった)へびがわたしをだましたのです。」と答えました。彼らは、自分の非を認めて赦しを請うのではなく、あろうことか、自分はむしろ被害者だといわんばかり、責任を転嫁しようとしたのでした。 そのようにアダムとエバは、悔い改めることもなく、神様のもとから離れていったのでした。そうして、神様は、心血注いで創り上げたご自身の息子と娘を失ってしまわれたのでした。堕落したのみならず、悔い改めようともしなかったたアダムとエバには、もはや神様の子としての面影はなく、そこにはただ、自己中心に陥ったサタンの子としての姿があるだけでした。

神様はご自身の血統を失ってしまったとき、神様の未来に対する希望もなくなってしまったのでした。そのように、神様に何が一番の心痛であったかといえば、それはご自身の血統を失ってしまったことでした。 無形の真の父母である神様のもとを離れていったアダムとエバは、その後どのような家庭を築いたのでしょうか。彼らは、その長男カインが次男アベルを殺すという悲惨きわまりない家庭を築いていきました。もし、カインとアベルが親の気持ちをよく察することのできる親孝行の心を持ち合わせていたとするならば、そういう殺人が起こりえたと思いますか?

アダムとエバが神様の似姿として完成し、理想的な父母、真の父母となっていたならば、神様の「ために生きる」真の愛をもって、息子娘たちを教育していくことができたでしょう。 しかし、アダム、エバ自身が神様に対して、その親心を分かろうともしない親不孝な息子娘となってしまったのですから、彼らは家庭の中に神様の真の愛の伝統を立てることができませんでした。人類最初の父母が「ために生きる」伝統ではなくして、自己中心の伝統を打ち立ててしまったがゆえに、彼らに端を発する人類は、分裂と闘争と悲惨の歴史が作ってきたということです。

神様は一組のカップルを創られたのであって、そこから根を同じくする子孫たちが、互いに分裂して異なる民族、国家を作り、国境をつくり、自己の利益のために、対立し戦争するような歴史を築いていくなどとは、想像もされなかったのです。闘争と悲惨の歴史の中で、人間は「人間とは何か」という問いかけをし続けててきました。 そうして、「答えを見つけた!人間とはサルの子である」と言う人まで現れるようになりました。なんという悲劇でしょうか。

仮に、皆さんの子供が幼くして、何かの事故で生き別れるようになってしまったとしたらどうでしょうか。親として、その子のことを思わない日がないでしょう。再会を願い、子供を捜し続けていくことでしょう。そして、ようやくその息子を捜し当てたとします。ところが、その息子が道端でこじきをやっていたとしたらどうでしょう。ようやく、捜し当てた息子を前にして、「事情があって生き別れになってしまったけれど、お前は私の息子なんだよ」と言ったとして、彼が「あなたは何を言っているのですか。自分には親はいませんし、自分はただのこじきですよ。哀れにお思いなら、何かお恵み下さい」と答えるならば、それはどれだけの悲劇でしょうか。

本来、神様の子としての価値をもって創造された人間であるにもかかわらず、その価値を完全に見失ってしまい、「神なんかいない。人間は結局サルから進化したにすぎないんだよ。」と言うとき、それは、わが子が乞食に身をやつす以上の悲劇であると言えないでしょうか。そもそもサルには人間のような霊性はなく、人間の根源たり得ません。結局、人類の悲劇は、 アダムとエバが、無形の真の父母である神の似姿として、人類の真の父母になるべきであったのに、そうなることができかったことにあるのです。

真の父母なしには、人類は神様とは誰なのかを知ることも、神様の真の愛を経験することもできず、神様との親子の心情関係が完全に切れてしまいました。それが堕落の悲劇です。 毎日、殺人やテロ、戦争のニュースであふれかえる現実。さらに悲惨なことには、私たちは、それに慣れてしまっていて、世界はそんなものだと思っているのです。しかし、そうではありません。神の子としての本来のアイデンティティーを失なってしまい、現在の利己主義、個人主義的なライフスタイルや世界が問題であることすらはっきりと認識できない私たちは、いわば霊的病人に陥った立場であるといえるでしょう。

このような悲惨に直面する私たち人間の宿命は、失ってしまった神様との心情的な親子関係を回復することにあります。ところが、神様の心情については、聖書においてすらはっきりとは明かされていません。イエス様は、人類史上はじめて、神様が人類の親であるということを教えて下さった方でした。そして、神様の心情についても触れられましたが、当時の人々はそれを受けるだけの十分な備えがないのをみて、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。」(ヨハネによる福音書16章12節)とおっしゃいました。

そして、「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話して聞かせるときがくるであろう。」(ヨハネ16:25)と言いながら、再臨の約束をされたのでした。民族間や宗教間の対立が峻烈化の一途を辿ろうとしている今日の世界ほど、人類は神の実在に関する明確な説明を必要としている時はありません。さらには神が本当に実在するのならば、神の美名のもとに扇動される宗教的対立をはじめ、民族間の不和、拡大する貧富の格差、テロリズムなど難問題が山積する今日の世界を、いったい神はいかなる心情でもって見つめておられるのかといった、内容についての解答をも私たち人類は必要としているのです。

私たち人間存在の根本に関わるこれらの問題が、私たちの心の深いところから納得できるかたちで解き明かされ、神は私たち一人ひとりにとっての親であるということを知るようになるとき、人間は失っていた神との心情的な親子関係を復帰していく道を歩みだすようになるのです。そして、この唯一の道を歩む人々はみな、いつの日か、全人類の親である神の下、互いに兄弟姉妹として合い間見えるようになることでしょう。そうして築かれていく新しい世界は、もはや民族や国家あるいは宗教をも超越して、人類がその無形なる真の父母である神を中心として共に生き、共に栄えるという、人類一家族の理想を実現した平和世界となっていくことでしょう。

今はまさに、人類の親たる神様の心情があからさまに解き明かされようとしている時代です。
1935年4月17日早朝、ある一人の少年がその熱心な祈祷を捧げていた最中、イエス様から啓示を与えられました。イエス様は、人類の苦難を見つめるご自身の心痛はいかばかりであるかをあきらかにされ、やり残された人類救済を摂理を完結してほしいという願いを託そうとされたのでした。しかし、その啓示はあまりにも重大かつ深刻であったため、少年は、イエス様の要請を二回にわたって辞退したのでした。それでも、イエス様が二度ならず、三度までも祈祷のうちにお現れになり、少年を神のみ旨へと召命されたとき、少年は、「自分が辞退したとしても、その使命を果たすための悲惨で困難な道を、人間の誰かが行かねばならないのだ」と悟り、謹んでその天命を受け入れたのでした。その少年こそが、若き日のレバレンド・ムーンでした。

皆さんが、イエス様から啓示を受け、「遣り残した使命を全うしてほしい」と召命されるとしたら、イエス様からの直接の召命を受け入れないでしょうか。ましてや再三にわたってイエス様が直接呼びかけつづけられるならば、たとえ自分には畏れ多いことだと思ったとしても、受け入れるのではないでしょうか。レバレンド・ムーンは、まさにそのようにしてイエス様からの召命を受け、自らの生涯を神のみ旨に捧げることを決意されたのでした。以後、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる霊界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれました。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救いうる最終的な真理を探し出すことはできないという原理を知っておられたがゆえに、レバレンド・ムーンは単身、霊界と肉界の両面にわたる悪の勢力サタンと闘い、勝利していかれたのです。

レバレンド・ムーンは、以下のように語られます。
「私の幼少のころ、神は私に、神の器としての使命をお与えになるために私を呼び出されました。私は神の預言者として、神の真理を神のために明らかにするよう命ぜられました。私は霊界の丘や谷間をさまよいながら、その真理の追求に決然として専心しました。そして、ある時、突然天界が私の前に開かれ、私はイエス・キリストと生ける神御自身と直接通じ合う特権を与えられたのです。その時から、私はたくさんの驚くべき啓示を受けるようになりました。神御自身が私にこの宇宙の最も根本的、中心的な真理は神が親であり、我々人間がその子であると語られたのです。我々はすべて、神の子として創造されているというのです。そして、神は父と子が一つになるとき――愛において生命において理想において一つになるとき――それ以上に近く、それ以上に深く、それ以上に親密な関係はほかにないのだと言われました。

その啓示を基点として、レバレンド・ムーンは、創造時にアダムとエバに対して抱かれた神の喜びと希望の心情、想像だにしなかったわが子の堕落によって失望のどん底に落とされた神の悲痛な心情、そして、堕落した人間を見捨てることができず、人間の責任分担を尊重しながら忍耐心をもって、人間を救いの道へと導き続けこられた、神の苦痛といった、神の親としての心情に到達するに至ったのでした。

そのように 「天の父についてあからさまに話すときが来る」と、かつてイエス様の約束された内容を解明し、人類の真の父母たる神はいかなるお方であり、またいかなる心情をもって私たち一人ひとりを見つめておられるのかを、生涯をかけて世界人類に伝え続けておられるお方が、レバレンド・ムーンであり、その思想を基本理念として創設された世界平和統一家庭連合は、今日、世界191カ国において、神中心の理想家庭のビジョンを提示しながら世界平和実現のための活動を展開しています。


世界平和統一家庭連合からの主要メッセージ

統一原理・総序
人間の生および宗教を洞察しながら、現代世界が抱える諸問題解決の糸口を探ります。
人間に対する神の希望 人はなせ生を受けるのでしょうか?宇宙誕生の背後に原因者(神)がいるなら、人間は神にとって果たしていかなる存在なのでしょうか?
キリスト教の新しい未来 最近、米国で公開された映画「Passion of Jesus」(日本2004年5月公開予定)が描写するイエスの十字架の生々しい苦難がキリスト社会に大変な衝撃を与えています。愛の神は、果たして本当に、その愛するひとり子イエスをあのむごたらしい十字架刑に付けるために地上に遣わされたのでしょうか?聖書をひもときながら、十字架の意味を再考するとともに、キリストの再臨について考えます。
宇宙の根本を探して 存在はなぜ全て、陽と陰のペアで成り立っているのでしょうか。結婚の本来の意味はいかなるものなのでしょうか。世界平和統一家庭連合創設大会における創設者のメッセージです。
救援摂理史の原理観 聖書に見る救援摂理史の骨子とメシアの使命を解説します。
真の愛は誰もが願う 真の愛による永遠の家庭を築いていくための処方箋。
国境線撤廃と世界平和 国連本部においてなされた世界平和実現のための提言。
神の祖国と平和王国は 
解放と釈放圏の上で
協会創立50周年記念式典におけるメッセージ。
神様の理想家庭と 
世界平和のモデル
超宗教超国家連合」(1999年創設)のプログラムと使命を発展継承する「天宙平和連合」の創設大会基調講演文。   人種、文化、宗教、国家の壁を超えて世界平和実現を目指す新しい国際機構「天宙平和連合」の創設趣旨ならびに、東西世界の架け橋となる「World Peace King Bridge-Tunnel」(ベーリング海峡ブリッジ・トンネル)プロジェクトの提案。